フラダンスがどこから来たのか、どうやってハワイの文化として根付いたのか、フラダンスの起源と歴史を前編でお話ししましたが、ここではフラダンスが生まれてから現在に至るまでの道筋をたどりたいと思います。
ここでも、フラダンスではなく「フラ」という呼び方を使います。
「フラ」という言葉には踊りという意味だけではなく、踊り手、詠唱、唄、唄うことなど、フラに関わる全ての事柄を意味します。
1.フラの歴史 ~19世紀
タヒチから伝わり、ハワイで独自の進化をとげたフラ。
しかしイギリスのキャプテン・クックがハワイを発見し、太平洋の真ん中にポツンと孤立していたハワイに西洋の風を送りこんだ18世紀後半から、フラは苦難の道をたどることになります。
1778年、キャプテン・クックがハワイを発見、カウアイ島に上陸します。
これをきっかけに、ハワイは交易の拠点として世界と関わりを持つようになります。
ハワイを訪れた白人たちはハワイの人々に西洋の文化と武器を与えました。
その武器を使い、領土を広げ多数の部族の人々を従わせ1795年にハワイ王国の建国を宣言したのが、ハワイ王国初代の王、有名なカメハメハ1世です。
カメハメハ1世は1810年に全ハワイ諸島を統一しました。
1820年にはアメリカ、ボストンから宣教師団が、ハワイ島コナに上陸しました。
その目的は、ハワイの人々をキリスト教へ改宗させることでした。
ハワイでは、太陽や海、空、樹木など自然界のあらゆるものに神が宿っていると信じられ、人々はその神々を崇拝し、その神々にオリを唱えフラを捧げていました。
宣教師たちはそんなハワイの人々に、一神教であるキリスト教を信仰させるため、フラとオリの禁止をカメハメハ王の妻であるカフマヌ女王に進言しました。
改宗のためという理由の他に、露出の多いフラの衣装(当時は上半身裸で踊っていました)が猥雑で低俗であるという理由を挙げたといわれています。
そして1830年、女王の命を受けたカメハメハ2世により、公式な場でのフラは禁止されてしまいます。
その後、カメハメハ3世の治世下にはハワイ語がアルファベット表記に変わり、それまでの口頭伝承から記述や印刷技術へと発展しました。
首都がマウイ島ラハイナから、オアフ島ホノルルに遷都されたのもこの頃です。
1848年「グレート・マヘレ法」が施行され、白人がハワイの土地を手に入れることが出来るようになり、アメリカからハワイへの入植する者が増えました。
1862年にはハワイ諸島の土地のうち75%が外国人の所有になり、西洋化が加速度を増します。
日本からの入植が始まったのはその6年後の1868年頃のことです。
そして1874年、カラカウア王によりフラ禁止令が解かれます。
その頃、西洋の影響を受けた歌を取り入れたフラ(フラ・クイ)が成立され始め、1886年にはカラカウア王の50歳の誕生日パーティーが開かれたイオラニ宮殿で、初めてフラ・クイが披露されます。
カラカウア王によって復活を遂げたフラですが、1898年にハワイがアメリカに合併されハワイ王朝が崩壊、ハワイ語を話すことが禁じられると、ハワイ語と深い関わりを持つカヒコは徐々に衰退していいます。
それに代わるように、西洋の音楽やピアノなどの楽器が輸入され、新しい音楽「ハワイアンミュージック」が生まれました。
フラの新しい歴史が始まったのです。
2.hula is Hawai`i
フラの起源と歴史は常にハワイの歴史に翻弄されてきました。
太平洋の真ん中にポツンと取り残されていたハワイ諸島に、西洋の人々がやって来て新しい文化を伝えました。
でもそれと同時にハワイの人々は神を奪われ、土地を奪われ、言葉を奪われることになりました。
ハワイの人々はそんな受難の時にも、常にハワイの人として生き、ハワイを守ってきました。
私たちが今フラを学べるのも、そんなハワイの人々の強い思いがあったからです。
こうしてハワイの人々が守って来たフラはその後、どんな道をたどるのでしょうか。
フラダンスの起源と歴史を学ぶ道もまだ続きます。
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