フラはいつもハワイの歴史とともにありました。
ハワイ王朝の誕生と崩壊、西洋からの圧政、西洋文化の進出など、フラにとって苦難の時期が続きました。
それでもハワイの人々はフラを守り、今に伝えてきたのです。
1.フラの歴史 20世紀~
ハワイ語の禁止により衰退していったカヒコに代わって、西洋の影響を強く受けた音楽に合わせて踊る新しいフラが生まれつつあるころ、ハワイはアメリカ合衆国の50番目の州になりました。
1959年のことです。
これにより、ハワイの美しい海と自然豊かな島々に、本格的な観光地としての開発の手が入ります。
その後の10年間で、ハワイは驚くべき変貌を遂げます。
数々のホテルや大型ショッピングモールが建設され、道路や水道の整備、空港の建設など、インフラも近代化、世界的な観光地としての地位を確立しました。
その成功に一役買ったのが観光宣伝用に作られた、たくさんのハリウッド映画です。
中でも当時人気絶頂だったエルヴィス・プレスリーを起用し、カウアイ島を舞台に1962年に撮影された映画『ブルー・ハワイ』は大ヒットし、テーマ曲の『ブルー・ハワイ』は今でもフラの名曲として踊られています。
この『ブルー・ハワイ』のように、英語で歌われ西洋の影響を強く受けたハワイアンソングを『パパ・ハオレ』(半分白人の意)と呼びます。
こうして、ハワイが世界に向けて開かれ、観光地としてたくさんの人々を迎え入れるようになると、フラは観光客に向けて披露されるショウで踊られるようになります。
より人目を惹くような音楽や衣装を使い、フラはエンターテインメント性の高いものへと変わっていきます。
しかしその反面、起源より古来から踊り継がれてきたフラカヒコは衰退の道をたどっていましたが、1970年代になり、1960年代に起きたアメリカの公民権運動(人種差別をなくし平等な社会を求めた運動)の影響により、ハワイでもハワイ人としての誇りを取り戻そうという動きが生まれたことで復活の兆しを見せ始めます。
この『ハワイアン・ルネッサンス運動』により、西洋文化に流されようとしていたフラは、再びハワイの伝統文化としての役割を取り戻し、カヒコはようやく表舞台に帰ってきます。
そして、失われたハワイ語を取り戻すためハワイ語の幼児教育が始まり、伝統文化であるフラを若い人々に広めようとハワイ各地で競技会が開催されるようになりました。
1971年、それまでただの発表会として1964年から開かれていた『メリー・モナークフェスティバル』も、コンペティション形式に生まれ変わりました。
メリー・モナークとは陽気な王様という意味で、長く禁止されていたフラを復活させたカラカウア王を称えるため、彼の愛称を名称にいただいたものです。
メリー・モナークフェスティバルが競技会形式になると同時に、フラは現在のようにカヒコとアウアナに分けられて踊られるようになりました。
こうして現在のフラの形が確立していったのです。
2.hula is Hawai`i
ハワイアン・ルネッサンス運動により、ハワイ人々は民族意識を取り戻していきました。
そして見直されたハワイの伝統文化としてのフラ、その源流であるカヒコの復活を確立したのが、競技会形式になったメリー・モナークフェスティバルではないでしょうか。
この競技会の開催に尽力したクムフラ(フラの教師)の一人が、ハワイの人間国宝でもあるジョージ・ナオペです。
ジョージ・ナオペは、ハワイの人々から尊敬されるフラ・マスターで、人々から親しみをこめてアンクル・ジョージを呼ばれています。
1946年から60年以上の長きに渡りフラの伝承と指導に力を尽くし、2009年10月26日に81歳で亡くなりました。
そして、長く禁止されていたフラを復活させた、デイビット・カラカウア王。フラを復活させただけでなく、その復興に力を尽くし、多くのフラの古典や文書を後世に残すために尽力しました。
また世界を歴訪した際には、ウクレレなどの外国の楽器や、レース・ベルベットといった生地やホロクと呼ばれる裾の長いドレスなどを持ち帰り、フラに取り入れました。
こうした人々の努力のおかげで、現在私たちはフラを学び、踊ることが出来るのです。
フラの起源と歴史はハワイの歴史、そしてハワイの人々の歴史そのものであるのです。
フラを学ぶとき、こうしたフラの起源と歴史に興味を持つことも大切だと思います。
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